司法試験を目指す受験生の皆様へ(8)~司法試験受験生は問題を解いていない~ 

1 問いに答えることが求められている

司法試験管理委員会は、論文を書けとは表現していません。「短答式」「論文式」の試験だとされているのみです。短答式なら、選択式で問題に答えなさい。論文式なら、論述して答えなさい。つまり、司法試験が問題で問うている「問い」に対して「答えなさい」と言っているにすぎないのです。しかし、法科大学院で勉強してきたこととは裏腹に、司法試験受験生は、どうも違うことをしているように思います。新司法試験になって、出される問題の事案が非常に多くの事実を含むようになり、社会で生起する事実になるべく近い形で、さまざまな事実を時系列に書いている問題文になっています。
受験生は、当事者ごとに事実を整理して、どの当事者間で、どのような権利義務関係が発生し、あるいは消滅していくのかを検討していかなければならないのです。たとえば、ある要件を充足しているかどうかが権利義務確定の要件だったとすれば、その要件の充足の有無を判断するにあたって、条文そのままならその条文を、条文解釈に争いがあって、その要件に関する判例があればその判例が示した基準(いわゆる規範)をあてはめていきます。
そして、さまざまな発生事実の中から、その規範(基準)にあたるかどうかを判断するための事実を取り上げて、要件具備の有無を論じていきます。これが司法試験に求められている「解く」ということです。

2 受験生が司法試験に向かう態度

これに対して、受験生はなんと言っているでしょうか。非常に詳細な事実が時系列に書かれているから、その中から、要件や規範に合うか、合わないかのための事実を「拾い上げ」なければならないと言っています。私も、それ自体は正しいと思います。実務では、生起した事実を事情として聴き、その関連する証拠の提示を受けて、当該要件や規範に合致しているかどうか。逆の立場なら、要件や規範にいかに合致していないかという事実を汲み上げていきます。そして、主張を構成し、結論を導いていきます。だから、その意味では事実を「拾い上げる」という発想には問題ありません。しかし、受験生はこうも言います。「どういう事実を拾い上げたらよいか明確にはわからない。何がその規範で大切なことがらか判別がつかないのです。だから、できるだけ事実は拾い上げるほかないし、それでいいらしいのです。その拾い上げた事実のなかで、当該規範に合致するための積極要素や消極要素がはいっていれば加点されると聞いています。しかし、まったくそれが書いていないと点がつかないといわれます。つまり、多くの事実を拾い上げ、規範に結び付けて書くことで、他の者より加点を多くすることでいいと思っています。無益的記載事項がはいっているのは問題がないが、評価される事実がひとつも答案に入っていなかったことで、点がもらえないほうがリスクが高いのです。」と。
私に言わせれば、この発想は、事実を拾い上げているのではありません。単に、法的評価において必要な事実なのか、不要な事実なのかの判断をすることができないから、ただただ事実を「吸い込んで」、これかな、あれかなと勝手に判断して、書いているだけなのです。吸い込んで、できるだけ多くを書いて、それで点にしていこう、そう言っているだけなのです。

3 解くことから離れた回答の行きつく先

そういう受験生の態度のなかには、「解く」という意識は感じられません。つまり、それは結局、条文や判例の「規範」を理解しようという意識につながっていないことになります。ただ、司法試験の答案の体裁を整えて、なるべく加点される部分を多くして合格しようと言う意識しか見えないのです。しかし、その意識のままで合格し、弁護士になってしまうことは危険です。弁護士も「そのようなこと」をしていると錯覚し、司法試験合格という成功体験を得てしまったら、法的思考力の基礎的な力の何たるかを知らないで、仕事をし続けることになってしまうからです。このような発想で、受験をしているから、基礎的な実力が伸びて行かない弁護士が生まれてくるとしか思えません。

4 予備試験合格者を採用する理由(受験生の意識格差)

大手法律事務所は、予備試験合格者を多く採用すると聞きます。それはある意味、非常に合理的な考えだと思います。予備試験を受験して合格し、法科大学院を飛ばしてしまおうと勉強するということは、すなわち、法科大学院に入学して、勉強して、司法試験を合格するという受験生は、通常の「この程度」では納得できない人たちだからです。理解に寸止めをしている法科大学院生との横並びを、みずから積極的に回避し、脱出をはかった人たちだからです。勉強での理解に寸止めをしたりはしない人たちともいえるからです。
そしてまた、司法試験の問題よりも予備試験の問題がより基礎的な点をストレートに聞いている問題となっていることも、これを裏打ちしています。予備試験に合格するということは、まさにストレートに問われている基礎力ができていることを立証していることになるからだと思います。

※もちろん予備試験は記憶で合格する!と豪語している合格者がいることも承知しています。おそらくそのままで司法試験も合格しているのでしょうか、あるいは、記憶しているうちに理解して合格している人もいるのでしょうか、しかし、いずれにしても力をつけていないで合格してしまうと弁護士になって、なかなか伸びていかないと思っています。

5 「この程度でいい」というプロはいない

「この程度でいい」なんていう発想はプロにはありません。プロである以上、次々と発生する難しい問題に、法律のプロとして、きちんと事実を分析し、論理的に解析し、その解決方法を提示する。法律事務所にはいろうが、企業にはいろうが、自治体にはいろうがそれは全く同じはずなのです。司法試験というのは、プロ登用試験です。ですから、勉強も、少なくとも司法試験科目については、自分の頭で「理解する」ことが根本にあるのが当たり前ではないのでしょうか。「理解」もしていないのに、なんとなくこういう辺りの問題がでているので、これまでの模範解答はこういうことだったので、この程度を書いていけば合格するのではないかという共通認識。これを自ら突破しないことには、プロにはなれないのではないでしょうか。「この辺りの問題だから、自分なりに論証して、悩みも見せながら書けばいいのではないか。」ある法科大学院の中では、一般的にそういう会話が飛び交っているらしいのです。しかし、よく考えてほしいと思います。「この辺りの問題だ」「この辺りの事実が大事だ」などと争点整理をしている裁判官がいたら、判決が書けるのでしょうか。「この辺りの問題だ」「この辺りの事実だ」といって起訴をする検察官がいたら、その起訴で有罪になるのでしょうか。そんなはずがありません。そんなことを考えているプロなど存在しないのです。したがって、「この辺りの問題」を答えなさいなんていう司法試験の問題も出されていないのです。
司法試験は、その事実経過のなかに、明白に各科目の法律問題が存在していて、その問題点を抽出してひとつの論理展開で法律的な回答をするよう求めているのです。問題を解決していく過程で、争点にぶつかり、その争点における「規範」をあてはめていきます。その規範(基準)に合うか、合わないかの判断をするための事実要素を丹念にくみ上げて肯定否定を決定していきます。きっと、司法試験委員の先生方は、「もうちょっと迫ってほしいなあ。ほんとうはもう少し勉強したうえで合格させたいなあ。」そう思っているのではないでしょうか。

6 先輩の指導によるデッドコピー

「この程度でよい」「この辺りでよい」という学生の認識や意識は、受験生仲間内でコピーされ、伝播することになります。実際、「この程度でよい。」という学生が、それで十分に合格しているからです。司法試験に合格したということは、あなたは司法修習を経て、実務に就いていいよ、プロフェッショナルと名乗っていいよ、という国家のお墨付きを与えられているからです。国家からお墨付きを与えられた人の話は、法科大学院内でもありがたく拝聴されるからです。
合格者は何を語るのでしょうか。「俺って、まだ基礎的な力が付いていないと思うんです。もうちょっと勉強していたら、もっと軽々と合格したかもしれないです。これからも勉強続けなければならないと思います。だから、君たちもこの点をもっと勉強したらいいと思います。」と謙虚に語るのでしょうか。多分、そうは語らないのでしょう。シャイな世代の人たちです。その場の雰囲気を読む人たちです。突出しない人たちです。「あまり勉強しないでも合格しましたよ。これと、これをやったら合格しましたよ。その程度でいいんじゃないでしょうか。」そう語るのです。まさに「ミレニアル世代」なのです。
そして、「この程度」が拡散されていきます。もうこうなったら、法科大学院の教員の先生方の声は、彼らには届いていません。「だって、そんなにしんどい勉強しなくても、法科大学院の勉強に付いて行ったら合格するんですよね。」「この程度でいい。そう先輩が言ってました。」

7 しっかりと勉強している受験生

もちろん、しっかりと基礎的なところを理解しようと勉強し、その結果、合格した者も法科大学院には存在します。結局、法的思考力というのは、論理的思考力であり、その力をつけるにはある程度の高い能力か、あるいは、相当の時間がかかるのです。要件と効果が書かれた教科書をひとつひとつ読み込んで、先生の講義を受けて、思考方法を学んでいきますが、一通り勉強を終えたとしても、じゃあ、それをどのように使って問題を解決していくのかというレベルにつきあたります。そして、どのような順序で、どのような法的構成をもって結論を出していくのかという考え方を身に着けるまでは、また一段上がらなければなりません。ですから、それを早期に理解してしまう人というのは、相当な理解力と論理力をもっている人ですし、それが追いついていない人は、ひたすらに時間をかけて、考え、議論し、自分の頭をつくっていくほかありません。
しかし、とてつもない時間がかかると思った人は、法科大学院を修了した年に司法試験を合格するということを考えれば考えるほど、もっと早期に合格できる方法はないのかと考えることになり、結局、「どの程度」理解すればいいのだ、と「この程度」マインドで、自分にあったレベルを探し続けるのでしょう。
理解力と論理的思考力を早期に身に着けることができた学生は、着実に基礎能力をつけ、「優秀」あるいは「良好」な答案を書いて、希望通りの法律事務所や企業に悠々と内定をとり、静かに法科大学院から去っていくのでしょう。しかし、その声は、一般には聞こえていません。拡散していきません。その人たちは、特別なんです。その人と自分とは頭の出来が違うからと理由をつけて、もっと簡単な方法を探していこうとしているのです。そして、「この程度」の勉強方法にであい、それが拡散されているのです。だから、法科大学院でも序列ができています。それぞれの法科大学院の実績で、司法試験で合格するラインとなる成績がだいたいわかっています。だから、法科大学院内でその成績をキープすればほぼ合格が約束されていくのです。ですから、法科大学院生や司法試験受験生が、そのレベルを目指して勉強していくことになるのもまた必然となるのでしょう。

8 絶対基準を目指してほしい

「解く勉強」をしてもらえたら、司法試験を解けているかどうかですから、ある意味で絶対的な基準です。しかし、「この程度」の勉強というのは、それは相対的な基準ですので、そのレベルが毎年毎年落ちて行くように思います。その結果、司法試験通過時点で身に着けていなければならない素養が身についていないままに合格する者が増えることになり、その人たちは、こういう勉強をすれば合格するぞという認識をもって後輩を指導し、答案を添削し、だんだんと司法試験が求めている方向性とずれていってしまう可能性があることを意味しているのだと思うのです。
偶然の合格か、偶然の不合格か。私は、偶然の不合格が幸せだと思います。もういちど、自分を見直し、司法試験は何を求め、何を問い、何を目指しているのかをあらためて考える機会を与えられるからです。実務家になることを考えているのであれば、この機会を利用して、もういちど法的な思考力というのはどういうものか、法的論理とはどういうものかをしっかりと考えることができるからです。自分がしていた理解の「寸止め」を外し、法的な基礎というものを理解すべく勉強して、司法試験で問われたことにまっすぐに答えるようにあらためて勉強できるからです。基礎的な問題が出題されているのですら、基礎的な力さえあれば、「この辺り」かな?というのではなく、「この点」が問われていると明確に認識できます。そして、そのことを真正面から論じればよいのです。「この辺りを自分なりに悩みを見せながらうまく書いてみよう。」そういう司法 試験委員の先生方を馬鹿にしたような態度で臨むこと自体が間違っているのです。司法試験委員はプロ中のプロです。ちょっとした言い回しや、論理矛盾、事実の汲み取りにおけるミス、すべてお見通しです。それを基礎的なこともわからないで、受験しようという考え方自体が、自分はプロにならなくてよいと言っているようなものだと思います。
ほんとうにプロになりたいのなら、プロ登用試験に必要な基礎的な力をつけて受験するべきだと思います。そしてこれを理解して受験し、堂々と合格するべきなのです。そうすれば、司法修習にはいっても、裁判官、検察官、弁護士と、具体的な事案の問題点について、法曹のあり方や将来について、ほんとうの会話ができるだろうと思います。司法修習は、一から基礎を教える場として設定されているものではありません。法曹養成の線上にある司法修習は、本来、実務を体験して、実務家として独り立ちするための実践をする仮免許講習なのだと理解しています。

9 成功体験が邪魔している

「この程度」マインドで合格したとしても、合格者がすぐに気づいてくれればいいと思います。司法修習にはいったあと、弁護士になったあと、やはり司法試験は合格したけれども、基礎的な素養に問題があったんだな、もう少しきちんと勉強しなおさないと実務で独り立ちしていくのは難しいんだな。そういう謙虚な気持ちになって、自分を見つめなおしてくれる人がいれば、その結果は修正できていきます。司法試験の採点をしていただく委員の先生方には大変申し訳ないですけれども、これならまだ先生方も報われます。しかし、それができないのが人間なのでしょう。合格者は合格者。法務省が、君は弁護士になっていいよ、その素養を身につけた方だよと、お墨付きを与えてしまうのです。お墨付きを与えられているのに、私はもしかしたらお墨付きを与えられるに値する力はないのかもしれないなどと考える人がいればそれはもう神の領域なのです。
私も経営する法律事務所で新人弁護士を指導してきましたが、この壁を乗り越えさせることは残念ながらなかなかできないのが実情です。私たちは、プロなんだ。プロである以上、法的な判断能力を身に着けていかなければならない。だから謙虚に勉強しよう。繰り返し言うのですが、空しい響きに終わってしまうのです。合格証書をもらい、かつ、二回試験まで合格した「弁護士」が、そんなことに耳を傾けてくれることは難しいのでしょう。これが、今の法曹教育の行き詰まった問題なのだと思います。このことを、今一生懸命に司法試験の合格をめざして勉強している受験生に伝えたとき、「そうですね。それが本当なら、私たちもプロを目指すものとして、それらの点に注意して、勉強していかなければなりませんね。ぜひ、その問題点を教えてください。」そういう答えをしてくれる受験生がいてくれたらなあ。私は、その一縷の望みをかけて、これを書いています。

10 弁護士になっても抜け出せない「合格の魔力」

短答式も論文式もその問題を「この程度」に認識し、はっきりはわからないけれども、「この程度」で合格したのだから、社会に生起する「生」の現実をみても、「この程度」で事実を捉え、この辺りの分析をし、その辺を論理構築すれば足りるといった誤った考え方から抜け出せません。「この程度」の考え方が抜け出せない人に、いくら「この程度」ではダメなんだ。基礎的な能力を付けないとダメなんだ。弁護士になったあとに、何度も何度も繰り返しこの点を指導しても、どうもそれがほんとにピンとこないらしいのです。まるで、いつもサングラスをかけて生活している人に、世界はもっとクリアに見えますよ。だから、そのサングラスを取って、目の前のものを見てください。とアドバイスしているかのようです。
サングラスを取ってみたら?と、いくら指導しても、サングラスをかけて司法試験を合格し、司法修習を経て、二回試験にも合格し、弁護士になってきたのですから、そもそもサングラスをかけているよと指摘されたことが腹立たしいと感じているようにさえ思います。
あるいは、そのサングラスをかけていることが普通になっているから、物事がクリアに見えたという体験がないので、その体験をしないままに、「司法試験の合格」という成功体験を先に味わってしまったために、そもそもサングラスをかけていること自体もわからないようになってしまっていると感じます。ですから、本人は、「サングラス」を取る必要はないと思っているし、その「サングラス」を取ることは、まるで自分という人格を否定されているようで受け入れがたいのかもしれないのです。
法律的なものの見方、考え方の基礎を身につけてほしいと考えて、基礎的な点を指導しているのですが、それがかえって自分を否定されたように思うのでしょうか。とにかく、弁護士になったあとは、ほんとうにこのことを理解できないようなのです。
司法試験合格という成功体験たるや、とても大きいものです。それは、自分がなりたいと夢に描いていた「プロフェッショナル」という定義さえも見失わせてしまうような魔力をもっているのです。その魔力は、自分を客観視する力さえも減殺してしまうのです。

2018.9.17
(井口寛司)

→司法試験を目指す受験生の皆様へ(9)~頑張ってください~

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